2007
鈴木エージ
1991年 日・米・独・仏・豪 158分
発売元:サントリー/アスキー/三菱商事/電通
販売元:ポニー・キャニオン
=あらすじ・解説=なぜオーストラリアは最後にたどり着く場所なのだろう。
1999年の近未来、世界は核衛星が軌道を外れ地上に舞い落ちるかもしれないという危機に瀕していた。恋人と別れたばかりのクレア(ソルベイク・ドマルタン)は、南仏ニースからパリへの帰路の途中、逃走中の銀行強盗に頼まれ金を運ぶことになる。その途上、トレヴァー・マクフィー(ウィリアム・ハート)という男との運命的な出会いに遭遇する。しかし、トレヴァーは首に賞金をかけられ追われる身であった。そこからトレヴァーとクレア、そしてクレアのかつての恋人ジーン、賞金稼ぎ、探偵らを巻き込んだ追い、追われる旅がはじまる。ニースからパリ、ベルリン、リスボン、モスクワ、北京、東京、サンフランシスコという世紀末の世界を舞台にトラベラーとなった恋人達は駆ける。
そして最後にたどり着いたのが、荒涼とした赤い大地が広がる中央オーストラリアの砂漠地帯であった。
そこにはトレヴァーことサム・ファーバーの両親が、アボリジニの友人達と身を隠すようにひっそりと暮らしていたのである。サムの父親は優秀な大脳生理学者で、かつて米国で、ある開発にかかわっていた。それは「見る」という視覚情報を生化学的に分析、記録し、人間の脳へ直接その情報を送り映像として再び「見る」ことができるという特殊カメラとそのシステムの開発であった。これを使えば、例えば目の見えない盲人にカメラの捉えた映像を見せることができるのである。しかし、その悪用を恐れた父親はシステムを盗み出し、このオーストラリアの砂漠に密かに研究室を作ったのであった。この開発は元々、盲目の妻、サムの母親であるエディス(ジャンヌ・モロー)のために考えられたものだったのだから。
盲目の母親に家族の姿や世界を見せてあげたいと思う息子は特殊カメラを持ち旅をした。世界が終わってしまう前に…。そして不気味な核爆発の音が轟き、世界の存続が危ぶまれるなか、その実験ははじまった。
音楽にライ・クーダーを起用した『パリ・テキサス』(かっこよかったなぁ)、『ベルリン天使の詩』(渋いぜ)などロード・ムービーの旗手として高い評価を得ているヴィム・ヴェンダース監督の作品にあって、この映画は評価の分かれる作品であろう。ハイビジョン映像等の最先端の技術を導入し、話題を蒔いたものの、それまでの作品にあったような耽美な映像や登場人物の感情の変化を静かに描いてゆく手法が影を潜めているように感じられる。その替わりにトーキングヘッズやベルベット・アンダーグラウンド等のロックを多用し(これはこれでカッコイイ)、世紀末という生々しい時代設定と近未来の人々のクールな表情を捉えているのだが。
たぶんヴェンダース監督は、オーストラリアの大地とそこに生きる人々、すなわちアボリジニ達の姿を伝えたかったのではなかろうか。映画では、脳への映像の転送にとりあえず成功するが数十年振りに見る映像に母親は混乱し、やがて死んでしまう。だが、物語はここで終わるわけではない。目的を失った装置を今度は自分自身の「夢」を映像化しモニターするために使おうとするのだが、これにアボリジニ達が反対し、彼らは去る。実験は成功し「夢」が映像となってモニターに映し出される。それは限りなく美しく「人間が自らの魂に贈る讃歌だ」と言えよう。だが、「夢」が美しければ美しいほど、「現実」との距離は広がり、複雑な魂の迷宮に迷い込みそこから抜け出せなくなってしまう。アボリジニはそれをよく知っていたのではないだろうか。彼らは夢と現実を行き来し、コントロールする術を知っているようだ。あるいはそれは肉体と精神、意識と無意識、外宇宙と内宇宙といったものにも言い換えることができるのかもしれない。
映画の後半では、アボリジニの踊りの模様等が挿入されているし、またあのチャーリー・マクマーンもブッシュガイド兼運転手のような役で登場し、世界の無事を祝うパーティのシーンではディジュを吹く彼の姿を見つけることもできるだろう。(え)
(文・鈴木エージ)