JADA|チャーリー・マクマーン_ディジュプレイヤー紹介

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ディジュプレイヤー紹介:4
Charlie McMahon

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ブッシュガイド/俳優/アボリジニ文化の政府アドバイザー。白人にしてディジュリドゥのスペシャリスト。
片腕の“チャーリーおやじ”とは何者だ?!

Charlie McMahon
その謎の人物の素顔に、音楽評論家・山田道成氏が肉薄!
チャーリーからの熱いメッセージを聴け!

2007

山田道成

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Charlie's Profile & Discography

 ニュー・サウス・ウェールズ州のブッシュに近い町に生まれ育つ。4歳の時にTVでアボリジニがディジュリドゥを吹く光景を目にし、見様見真似でプレイするようになる。その後一家でシドニーに移住し、そこでロケット花火に夢中になるが、暴発事故で右手を失い、以後義手を付けなければならなくなった。16歳の時である。

 シドニー大学で社会学と都市計画を学び、教師の資格を得るが、アカデミックな世界に嫌気がさしブッシュへとリターン。オーストラリア政府のアボリジニ文化のアドバイザーとして6年間、アボリジニのコミュニティ作りに協力。

 その傍らディジュリドゥを使った独自の音楽製作を始め、1981年に"Didjeridusynth"というデモテープを録音。これに興味を持ったキーボード奏者ピーター・キャロランと共に「ゴンドワナランド」を結成、84年にアルバム『Terra Incognita 』でオーストラリア国内デビュー。以後85年に『Let the Dog Out 』、87年に『Gondwanaland』、89年『Wildlife』、92年『Wide Skies』を発表。映画「マッド・マックス3」のサウンドトラック製作や、88年の建国200周年の富田勲監修による大イベント”サウンド・クラウド・イン・シドニー”にも出演し海外からも注目されるようになる。その間にはミッドナイト・オイルとの全米ツアーをはじめ、様々なアーティストと共演・レコーディングするなど近年のディッジとロック/ポピュラー音楽との融合の動きの第一人者的な存在である。

 他に、砂漠やブッシュでのコーディネイターも務め、映画「夢の涯てまでも」(ヴム・ヴェンダース監督)のロケ・アドバイザーも担当するなど、様々な顔を持つ。

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ディジュリドゥとの出会いとプレイするようになったきっかけは?
ディジュリドゥに興味を持ったのはシドニー郊外のブルーマウンテンのブッシュの中で生活していた4歳の頃。TVのアボリジニのドキュメンタリー番組の中で吹いているのを見て、面白そうだと思った。すぐに水道管のパイプで風の音や動物の鳴き声を真似するようになったんだ。その瞬間から“僕はディジュリドゥ・プレーヤーとして活動しよう”とも思ったね。完全にその魅力に取り憑かれたんだ。テクニックは全て独学でマスターしたんだ。

ロックにディジュリドゥを持ち込んだパイオニア的な存在だと思うんだけど、その接点はどこにあったんだろう?
ロックにディジュリドゥを持ち込もうと考えたのは、10代前半にシドニー市街に住むようになってから。しかも16歳の時に花火の爆発で右腕を失ったこともあって、よりディジュリドゥのプレイに夢中になったんだ。シドニー大学に入学後は毎日ロックン・ロールやブルースなど、どんな音楽でもプレイしたけど、今の自分のプレイ・スタイルというのはそういう中で養われたんだと思うね。

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ゴンドワナランド結成までの経緯について教えてくれる?
シドニー大学では社会学と都市計画の教師の資格を取得したんだけど、その頃にはアカデミックな生活にうんざりしていた時でね。ちょうどその頃政府からアボリジニ文化のアドバイザーに任命され、それを契機にアボリジニのコミュニティ作りのためにブッシュに入り込み、6年間活動した後、ミッドナイト・オイルのレコーディングに参加したりしてたんだけど、自分自身の音楽を表現したくなって84年にアイリッシュ系のイギリス人キーボード奏者のピーター・キャロランとゴンドワランドを結成したんだ。

ゴンドワランドで表現しようとした音楽と実際の活動については?
ゴンドワナランドでは僕がブッシュやアウトバックに入って、実際にそこから吸収した自然のエネルギーを形にしようと考えた。実際に目にしてきた風景とそこから放たれる自然の力みたいなものをパノラマ感覚で音により描こうとしたわけさ。活動は普通のバンドと同じように都市部のクラブでフレイした他、ブッシュに入ってアボリジニのコミュニティも回り演奏することも多かったよ。一番大きかったのは1988年、オーストラリアの建国2百周年を記念してシドニー湾で行われた富田勲の監修によるイベント、“サウンド・クラウド・イン・シドニー”に出演したことだろうね。

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ところでチャーリー自身は何本ぐらいディジュリドゥを持っているのかな?
自分の家にそれこそ数え切れないぐらいあるけど、自分でプレイするために所有しているのは15〜16本ぐらいだね。そのほとんどはノーザン・テリトリーのアーネムランドに実際に出掛けて採ってきたもので、イエロー・ボトルやワイルド・ハニーという木を使用しているよ。

ディジュリドゥのプレイで注意している点は?
まずチューニング。温度や湿度で微妙に変化するから、演奏する前に水につけたり、中に多量の水を入れてしばらく置いておいたりしている。実際のプレイでは連続してプレイするのは45分が限度だね。それ以上続けると酸欠状態になるし、心拍数も一分間に70回が通常なのが、26回ぐらいまでに落ち込んでしまうんだ。

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ブッシュで吹くディジュリドゥってやっぱり違うんだろうね?
ブッシュに行き、自然の中に入り込んでディジュリドゥを吹いていると精神的にとてもリラックスできるんだ。その感覚は一種のメディテーションにも似ているよ。それに吹いている間はまるで精霊の魂が自分の体内に入り込んでくるような何とも言えぬ心地好い気分になるんだ。特にアーネムランドは僕にとって特別な場所と言えるね。

自然との関係をとても大切にしているようだけど、エコロジーについてどう思う?
それ自体はとてもいいことだと思うけど、もしもこれがひとつのブームになってしまったら悲しいことだよね。人間は破壊することは簡単にやっているけど、保護することをあまりに難しく考えているみたいだね。でも、僕自身が堂々と環境保護を訴えられる立場にあるかと言えば疑問だ。自然を愛し、自然からエネルギーを吸収しているけど、そこに行く時には車を使っているし、バンドでエコロジーを訴えるにしても電力を相当に消費しているわけだからね。それでもブッシュに入る時はそこのルールに従い、環境破壊に繋がることをできる限りしないようにしているよ。

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■山田 道成(やまだ・みちなり)

1957年2月18日生まれ、東京都世田谷区出身。
1979年、「平凡パンチ」のレギュラー・ライターとなったのを契機に音楽評論家としても活動を開始。その後はフリーで「アンアン」や「ポパイ」といった雑誌やライナーノーツの原稿を書く一方で、日本のアーティストのレコードのプロデュース、文化放送などラジオの構成やDJなども担当する。1987年に「ディスコグラフィ」、1988年には「バイオグラフィ」(シンコーミュージック)の監修も担当。それと並行してオーストラリアに通い始め、多くのアーティストと交流。89年にはARBのシドニー・レコーディングのコーディネイトを担当。その際にゲスト参加したゴンドワナランドのチャーリー・マクマーンとの交友を深め、その後日本でのレコード・リリースとマネージメントをサポートするようになる。また音楽だけでなく「ガリバー」などに旅行記事も執筆するようになる。それを契機に景山民夫氏からの依頼で彼が書き下ろした小説「モンキー岬」の解説を担当。それと前後してTVK、さらにCSTVのスペースシャワーといったTV番組の企画、構成も務める。
1993年11月にはオーストラリア政府が日本に向けて企画した大カルチャー・イベント “セレブレイト・オーストラリア” のショーケースのパブリシストを担当し、エクスポート・ミュージック・オブ・オーストラリアの組織からその功績を讃えられる機会も得た。

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C.McMahon/GONDWANALAND on YouTube

Charlie McMahon demonstrates the Digibone
ディジボーンという珍楽器(=トロンボーン構造のディジュリドゥ)を説明するC.McM (2:27) from Youtube
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C.McMahon/GONDWANALAND CD information

Travelling / Gondwanaland

Gondwanaland / Gondwanaland

Over Gondwanaland / Gondwanaland

Didjeridu Travelling Songs / Charlie Mcmahon & Gondwana

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