JADA|デビッド・ブラナシ_ディジュプレイヤー紹介

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ディジュプレイヤー紹介:1
David Blanasi

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トラディショナル・スタイルの持つパワーの秘密を知りたい。 その思いを胸に伝説のディジュリドゥ・マスター、デビッド・ブラナシを彼の住むコミュニティに訪ねた。

Didjeridu Master-David Blanasi

2007

鈴木エージ@日本ディジュリドゥ協会

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ディジュリドゥの深遠。

 この力強さは何だろう?  このグルーブ感はどこから来るのだろう? このドライブ感は一体?

 『Didjeridu Master』と題されたそのCDを聴いた時、僕は魂を揺さぶられた。派手なトーキングもトゥーツもない。しかし、この推定70歳を超える老人が吹くディジュリドゥの音にその底知れない深みと高みを見た気がした。あの音に一歩でも近付きたい。こうしてトラディショナルな「あるべき吹き方」への模索がはじまった。

 CDを手本に練習するが、その神髄は掴みかけたかと思うとまた霧の向こうに隠れてしまうのだ。
 この老人に会いたい。そしてそのディジュリドゥの音の秘密を何としても知りたい。思いは徐々に募っていった。

 実は2001年7月のNAIDOCウィークに合わせ、前年のマシュー・ドイルらによる「アボリジニ公演」に続いて、ブラナシと彼の率いるパフォーミング・グループ「Whiteco-ckatoo」を日本に招聘する計画をJADAで立てていたのです。しかし、もはやその老人には海外公演は体力的にきつすぎるものとなっていた。
 彼らの日本への招聘を諦めた代りに、こちらから会いにいくことにした。ちょうどスゥーデンのディジュリドゥ・アソシエーションが企画した「Didjeridu Tour in Arnheml-and」があったので、それに便乗し、彼らのコミュニティを訪れることになったのです。

ルーツを訪ねる旅へ

 乾季の7月、ノーザン・テリトリーの州都ダーウィンへ。空港からのシャトル・バスを降りるとガジュマルの木が迎えてくれる。旅はいつもここからはじまる。

 今回のツアーに参加するのはスウェーデンからの5人と日本からは僕を含め5人(*1)、それにコンダクターとしてホワイト・コッカトゥーのマネージメントを仕切るケビン・コスナー似のジェフの計11名だ。2台のTOYOTAランドクルーザーに分乗し、スチュワート・ハイウェイをひたすら南下すること5時間。途中キャサリンで食料を調達し、ここでメルボルンからの2名が加わり総勢13名となる。
 キャサリンからさらに南東へ約150km。もうもうと赤い砂塵を巻き上げながら洗濯板のようなダート・ロードを走ること2時間。尻が痛い。雨季にはこの道も水の下だ。 巨大なアリ塚が所々に点在する。それはまるで忘れ去られた何かの記念碑か、墓標のようでもある。
 ついにウグラー・コミュニティに到着した。英語名はBeswickという。質素でこじんまりとした家が点在し、犬がうろうろと歩きまわっていたりする、のんびりとした小さなコミュニティだった。翌日からディジュリドゥ作りがはじまる。

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ブッシュでユーカリを探す

 ユーカリの潅木が生えるブッシュをTOYOTAで這うように走る。ここではTOYOTAが車の代名詞だ。地面は赤く錆び付き焼けこげている。道は無い。ゴツゴツとした岩と潅木、アリ塚を避けながらガタゴトと進んでいく。時々水をたたえたギャップを超えなくてはならない。

 コミュニティの近くのユーカリは既に取り尽くしてしまったため、良いディジュの素材を探すにはかなり遠くまで分け入らなければならないという。
 適当なところで車を降り、あとは歩いて探す。ゴロゴロした石が歩きづらい。ブーツが必携となっていたのもうなづける。枯れたスピニフェックスが薄手のズボンの上から足を刺す。陽が高くなるにつれジリジリと暑くなってゆく。水を持つことも忘れてはならない。

シロアリからの贈り物

 ブラナシも同行した。痩せぎすで小柄なその老人は、サンダルでゆらゆらとブッシュを歩いていく。案内役はウグラー・コミュニティのナンバー2 トム・ケリーだ。こちらはがっしりとした、いかにもボスといった体格の持ち主だ。

 適当な太さのユーカリを斧で叩いて回り、これはと思うものを斧で切り倒す。その頻度は2〜3本に1本くらいか。みんなシロアリ君がよく食べてくれている。
 ディジュの素材として一般的なのは繊維が縦に走っている「ストリンギーバーク」と呼ばれる種類だが、アーネムランド中部のこの辺りの地域では「イエローボックス」というユーカリを使うらしい。その名の通り樹皮が黄色く、表皮を剥がすと中の繊維が踊るように絡みあっている。そのため、薄くシェイプしても割れにくい素材なのだ。この辺りではディジュリドゥのことを通称「バンブー」と呼ぶのも、薄目の肉厚からきているためかも知れない。
 また、最高の素材と言われる「ブラッドウッド」はディジュには向かないと見向きもしない。表皮を少し剥がすだけでその名の通り赤い血のような樹液がしたたり落ちる。ディジュの素材もその地域の植生や習慣によって異なるのだ。
 切り倒した丸太の掘られ具合を確かめ、適当な長さに切る。人数分の穴の空いた丸太をゲットした。

ディジュ作り〜シェイプ

 翌日、シェイプに取りかかる。作業は僕らが「ウグラー・ヒルトン」と呼ぶ宿舎のバックヤードだ。あの伝説のCDが録音されたのがまさにこの場所なのだった。

 グラインダーでまず荒削りし、さらに小型のグラインダーで仕上げていく。必要に応じてボトムの内側もノミで削る。行程の要所をアボリジニの何人かが手伝ってくれ、共同で作ってゆくのだ。

 北東部のヨルングのイダキに比べると吹き口は少し大きめかもしれない。これも吹き方のスタイルの違いを反映しているのだろう。
 この辺りの地域の吹き方は、Kun-borrkとかGunborkと呼ばれるスタイルである。基本的な吹き方は共通しているが、ヨルングの唇の極狭い部分を震わせ繊細にコントロールする吹き方と少し違って、Gunborkスタイルは唇の少し広めの部分をよりルーズに震わせるスタイルと言えようか。そのため吹き口が少し大きめなのかもしれない。

ペインティング、ブッシュの禅行

 次はペインティングの行程だ。ブッシュの小さな川べりで見つけた白い粘土状のオーカー。赤と黄色は小さな岩から。黒は炭を使う。これでアボリジナル・ペインティングの4色が揃う。そのままでは落ちてしまうので、現在はこれに木工用ボンドを加えて使う。また、最近は粉末のオーカーも売られている。

 ベースとなる色を選び全体を塗る。乾くのを待って、ボトムと中間部、トップに違う色で帯を入れる。その帯との間にクロスハッチと呼ばれる線画の技法でヤム芋やブロルガなどの鳥の絵が入るのだ。
 線を交差させその色のコンビネーションとコントラストで表現するクロスハッチの技法には繊細で緻密な筆遣いが要求される。この細い線は市販の筆では描けない。日本のカヤツリグサに似た植物の茎をしごき繊維だけを残したものを筆にするのだ。必要なものは全てブッシュで調達できる。
 細い線を一本いっぽん描く作業は禅のようだ。静かに時間が流れていく。見よう見まねで少し描かせてもらったが、彼らのように美しくまた味のある線はおいそれとは描けない。

金網の中のビール

 恐るべき集中力でペインティングを行うアボリジニの彼らだが、3時を回る頃にはなにやらソワソワとして落ち着かない。もうすぐ「クラブ」が開店する時刻だからだ。
 「クラブ」というのはコミュニティ内で唯一ビールが買え、飲める場所を指すらしい。後片付けも早々に4時には彼らの姿が見えなくなっていた。今日の作業はお仕舞いだ。
 僕らもぞろぞろと「クラブ」に向かう。その一角に高い金網で囲まれたまるで檻のようなスペースがあった。網の中はVB(ヴィクトリア・ビター)の緑の空き缶が散乱している。そこにビールを片手に飲んでいるモブ達の姿があった。コミュニティ内にはアルコールの持ち込みが禁止されている。が、アルコールの飲める場所がコミュニティ内にある「現実」を僕は知らなかった。

 ゲートをくぐってトタン作りの小屋に向かい、列の後ろに並ぶ。一日に買えるのは一人6缶まで、時間も6時までと制限されている。鉄格子越しに名前を言ってビールとチップスを買う。それにしても彼らアボリジニのモブ達はこの飲代をどうやって手に入れているのだろう。たぶん政府からの補助金のほとんどがビールに注ぎ込まれるのだろう。牢獄の中で飲むビールはとても苦かった。

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疑似セレモニーを見る

 「我々はラッキーだ。今、イニシエーションのセレモニーがこのコミュニティであり、その予行演習を見せてくれるらしい」。ツアコンのジェフが嬉しそうに僕らにそう告げた。ラッキーかどうかは疑わしいところだが、セレモニーもどきが見られるのはまたと無いチャンスである。

 夕暮れの迫るコミュニティのはずれのグランドで14〜15歳くらいの男の子達がディジュとソングに合わせ、砂塵を巻き上げながら踊っている。 NBAのランニングを着た今ドキの男の子達の何人かは部分的な簡易ボディ・ペインティングをしている。ソングマンとディジュはホワイト・コッカトゥーのメンバーだ。

 ブラナシはディジュを吹かず、少し離れてその模様を眺めている。陽が暮れ、暗くなるにつれ儀式の雰囲気が更に増していく。暗くなると僕らも参加して一緒に歌い踊った。
 ブラナシのディジュは聴くことができなかったが、セレモニーの様子をほんの少し垣間見た気がする。

マイ・ディジュの完成

 翌日もペインティングの続きをする。ペインティングが出来たら仕上げにビーズ・ワックスを付ける。精製していないビーズ・ワックスは真っ黒く、まるでチョコレートの固まりのようだ。木の根元の方のウロにできたワイルド・ハニー・ビーの巣を壊すと、中から蜜にまみれたワックスが採れる。オーストラリアのワイルド・ハニー・ビーは針を持たないので刺される心配はない。

 その甘い香りのする黒い粘土のような固まりを吹き口につけて完成だ。このディジュは、ウグラー・コミュニティで見て、聴いて、感じたことの全てとともに僕の宝物のひとつになった。

 聞きたいことが山ほどあったのに、ブラナシと親しく言葉を交わしたり、その演奏をたっぷりと聴く機会があまりなかったのが残念といえば残念だが、彼と同じ時間と空間を少しでも共有できたことで、その存在をより身近に感じられたのは確かだ。そのことが何よりもうれしい。
 お土産の代りに目に見えないたくさんの贈り物とたくさんの宿題をいただいて、僕らはコミュニティを後にした。

 ミミ・スピリットが棲むというウォーター・ホールで泳ぎ、ほとりでキャンプする。寝袋に入り満天の星の下で眠る。翌朝は夜明け前にダーウィンに発たなければならない。
 やり残したことがいっぱいある分、またここに来れるような気がする。虫や動物達の奏でるブッシュの音に包まれ眠りについた。

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ブラナシ失踪の噂

 帰国して数カ月、オーストラリアのディジュ関係筋から「ブラナシ失踪!?」のニュースが eメールで届いた。8月6日以来、ブラナシが行方不明になっているという噂だ。僕らが彼を訪ねたつい3週間ほど後のことだ。にわかには信じられなかったが、その噂はいまだに打ち消されていない。彼の安否が気にかかる。ひょっとしたら…。
 ゴムのサンダルでフラフラとブッシュを歩く彼の後ろ姿が、ブッシュ・ファイヤーの煙りの向こうに霞む。伝説のディジュリドゥ・マスターはミステリーとともにブッシュに消えた。


会報誌[DID YOU READ & DO? #32 Jan,2002] より
*これには後日談があります。
*残念ながら「ブラナシ失踪!?」の噂は、彼の死去という悲しい事実として公式に発表されました。
*彼の死を悼み2002年6月、DB Tribute Festival at Barungaが盛大に執り行われました。ご冥福を祈りましょう。
合掌。


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2001ツアーの動画がYouTubeに

David Blanasi & The White Cockatoo Performing Group - Aboriginal Culture / Didjeridu Tour 2001.
■2001ツアーの動画がYouTubeに (1:17:35) from Youtube
Feat: David Blanasi, Tom Kelly. Darryl Dikarrna, Jack Nawalill, Norman, Frank. Wugularr Community, Northern Territory, Australia.

=CD2枚紹介=
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David Blanasi CD information

Didjeridu Master / David Blanasi

超渋いコテコテのトラディショナルものです。推定70歳を数えるディジュリドゥ・マスターことデビッド・ブラナシのパワフルでグルーブに満ちた音がデジタル録音で収録されています。飾り的なトーキングやラッパ(トゥーツ)などはほとんど出てきません。音に「気」を感じます。

The David Blanasi Tribute Album / The White Cockatoo

D.Blanasiを悼んだトリビュートアルバム。ブラナシの生前の演奏から厳選した16トラックに、後継者Darryl Dikarrna Brownの4トラックを加えた全20トラック=40分のブラナシ最後のCDは、前作『Didjeridu Master』と共にディジュプレイヤーにとってはマストアイテムと言える名盤中の名盤である。

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